この日、僕は事務所のソファでゆっくりくつろいでいた。
今日が何の日かなんて気づかずに。
いや、このまま気づかずにいれば平和な一日を送っていたのかも知れない。
けれどそれは僕の意思とは関係なく、気づかされてしまったんだ。
そのときはもう、すぐそこに…。
2月14日・10時23分・成歩堂法律事務所
「あー…平和だなぁ」
天気もいいしお客も来ないし、昼寝でもしようかな。
そんな折、誰かの来訪を告げるチャイムが鳴り響いた。やれやれと重い腰を上げる。
「はい」
「よっ!ナルホドー」
「ナツミさん?どうかしたんですか」
そこに立っていたのは、毎回事件を妙な方向へと変えていくナツミさんだった。正直、あまり関わり合いに
なりたくない類いの人間だ。まさかまた何かの事件に巻き込まれたのだろうか。
「いや〜ウチは特に用はないんやけどなぁ、見学に来たんや」
「?何のですか?」
「そのうちわかるって」
「???」
ピンポーン♪
「ほら、来たで」
「誰がですか?」
「さぁな」
ナツミさんは勝手に来客用のソファーに座り、カメラのレンズを大事そうに拭いている。
一体何なんだ?
「はい」
「遅いっ!」
ビシッ!
「ぎゃあ!!か、狩魔検事!?」
「バカは行動も遅いようね…」
突然の襲撃に目がチカチカする。加害者は勿論、目の前でムチを構えて冷笑を浮かべる狩魔検事だ。
「ま、待った!!何で狩魔検事がここに!?」
ビシシィッッ!
「痛ぁ!無言でムチを振らないで下さい!何なんですか一体!」
「…バカはバカゆえに日付もわからないようね…」
「今日って…何かありましたっけ?」
バシッ!
「いてぇっ!」
恐る恐る聞いてみると、やはり思いっきり叩かれる。
「よろしい、教えてあげるわ。今日は2月14日。
世間一般的にはバレンタインデーというものよ。おわかりかしら?」
狩魔検事は法廷さながらに左手を突き出した。
「あぁ…そういえば」
通りで街中がピンク色のはずだ。こういうことに敏感な子たちがいないせいで、全く気にも留めていなかった。
「わかったのなら、受け取りなさい!成歩堂龍一!」
「え、えぇ!?狩魔検事が…僕にっ!?」
「そうよ」
もう一度突きつけられた左手には、きれいにラッピングされた小さな箱が乗せられていた。
信じられない。予想外の展開に僕は目を瞠った。
「チョコレートの原料カカオをガーナから取り寄せ、レシピ通り完璧に作らさせてもらったわ。
…ありがたく受け取りなさい!」
まさか狩魔検事がチョコをくれるとは・・・
嬉しいんだけど、そこまでされると受け取り辛いものがあるよなι
「あ、ありがとう…」
受け取らない理由もないし、とりあえず受け取ろうと手を出した…その時、澄んだ少し高めの声が所内に響き
渡った。
「待った!」
こ、この声は…
「千尋さん!?」
思わず声の方向を振り向くと、晴美ちゃんの身体を借りた千尋さんが静かに微笑んでいた。後には真宵ちゃん
が控えている。
「久しぶりね…ナルホド君」
「ナールホード君v」
「千尋さん…ι」
妖艶に微笑んで一歩前に出る千尋さん。僕を見た後に狩魔検事を見ると、二人の間に火花が散った…気がした。
「少し待って頂けるかしら?狩魔検事」
「あら、死人が一体何の用?」
その狩魔検事の一言で、一瞬にして周りの空気が氷つく。千尋さんを中心として…
「私たちもナルホド君に用事があるの。少し待っていてくれる?」
「今、成歩堂龍一はこの私と話しているの。後になさいな」
千尋さん…笑顔が眩しいですけど、こめかみが痙攣してますι
「ダメ!私もナルホド君にチョコあげるんだもん!」
「え?」
「真宵ちゃん特製、みそラーメン味なんだから!」
「え゛…」
「私のはナッツ入りよ」
「千尋さんまで…」
み、みそラーメン味って‥‥ι
千尋さんのことだから、きっとナッツが丸ごと入ってる硬いチョコなんだろうなぁ‥。
僕は少し気が遠くなった。その間にも睨み合いは続いている。やがて二人の背後には炎が…
「まぁまぁ、そこまでにしとき」
「ナツミさん?」
「何ですって…」
「まさか…」
今までナツミさんの存在に全く気がつかなかったらしい。結構目立つと思うんだけどな……あのアフロ。
それはともかく。制止に動いたナツミさんの存在に二人の目つきが変わった。
「あ、ウチはただの傍観者やから安心しとき」
その言葉に二人の目からナツミさんに対する敵意が瞬時にして消えた。そして、再び二人の視線が交わることと
なった。ナツミさんはその様子を見て、ニヤニヤと笑っている。明らかに面白がっている……
「お二人さん、このままやと話が進まないやろ?せやから、ナルホドーに決めて貰えばええんちゃうか?」
何だか怪しい雲行きになって来たぞ……ってナツミさん何を!?
「うんうん、名案だね!」
「それもそうね」
「バカ女にしてはいいこと言うじゃない」
冗談じゃないぞ!どっちを選んでも僕の行き先は同じじゃないかιこうなったら…
「さぁ、ナルホドー出番やでー…ってあれ?」
ぐるりと所内を見渡してみても成歩堂の姿はない。
「さては…」
「逃げたわね…」
目に炎を灯らせる二人。その後ろでは不気味な笑い声が密かに響いていた…
「ナイスやナルホドー‥‥いよいよおもろなってきたでぇ。クックックッ…」
* * *
ふぅ…偉い目にあった。‥‥逃げられた、かな?
ナツミさんが言ってたのはこのことだったんだな。しばらくはこのまま……ん?何か聞こえたような…
「ナルホド君〜!」
「何で逃げるのよ!?」
「待ちなさい成歩堂龍一!」
「げっ!」
お、追い掛けてきてる。何か砂煙がもうもうと……やばい!
「あっこらっ!」
「逃げるなぁ!!」
僕は走り出した。捕まれば…命はない!
こうして恐怖の2月14日が始まった。
僕を嵐の中心として……
けれど、これが始まりに過ぎないことを、僕はまだ知らなかった‥‥。
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